ヨモギサワ・ヨコボリ・ヒロフサ

思考の結果を徒然なるままに…

あけましておめでとうございます2023

https://ameblo.jp/hitojuku2011/entry-12787656886.html

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

ブログは長め(?)ですが、簡単に言えば「目の前にいるのは誰だかわかりますか?」って話と「自分が何言っているかわかってますか?」って話ですw

「下ネタ」

「次回は『下ネタ』について・・・」

 

と書いてからはや半年。

 

24日にブログを半分ほど書いたにも関わらず、下書き保存せずにスリープ状態にしたらデータが消え、書き直しに。

 

仕方がないので簡潔に「下ネタ」について。

 

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「下ネタ」は共有されやすい話題の一つ。

 

なぜなら大半の人は下半身を持っているから。

 

共有されやすいネタとしては「天気ネタ」もある。

 

しかし話題の広がる可能性は「下ネタ」の方が大きい。

 

これは各自が持つ情報の量による。

 

つまり、人は「自分の知っていることだけ」を話題にできる(興味を持てる)といえる。

多くの人は天気について考えるよりも、自分の下半身に関連することを考えている。

 

このことが何につながるか・・・・・・。

 

たとえば素晴らしい作曲家がいたとする。

その曲の素晴らしさによって多くの支持を集める。

その支持する人々の多くは音楽についての情報を持ち合わせていない。

すると、その音楽の何が素晴らしいのかを言語化できない。

それでも、その作曲家のことを話題にしたい。

 

そこで行われるのが、曲とは関係ない情報による話題づくりである。

作曲家の食事、服装、住まい、ペット、恋愛、人間関係・・・・・・。

今のままの自分でも理解できる情報で相手を理解したつもりになっていく。

 

すると、どんなにいい曲を作ろうと、療養中のパートナー以外との人付き合いをしただけで非難が集中し、引退に追い込まれたりする。

 

同様のことは、俳優に対しても、アスリートに対しても、科学者に対しても行われる。

俳優もその演技や作品ではなく、アスリートもそのパフォーマンスではなく、科学者もその研究成果ではなく、食事内容や服装、恋愛事情によって評価される。

 

では、なぜその音楽性、演技、作品、パフォーマンス、研究成果が評価されないのだろうか。

 

それは、人々に新しい情報を仕入れるインセンティブが働いていないからである。

 

「みんな同じ」

「気持ちがあればわかりあえる」

「頑張ればなんとかなる」

 

もしかしたら、こうした教育を受けている(きた)のではないだろうか。

 

しかし、この思想によって扱われる情報こそ「万人に共通する情報」=「下ネタ」なのである。

 

アーティスト、アスリート、科学者を「素晴らしい」たらしめているのは、「万人に共通する情報」ではなく、「専門性」である。

 

 

そしてその「専門性」を身につけるための入り口までたどり着かせるのが、中等教育の使命なのである。

 

けれども、日本の学校教育はその使命を果たせていない。

 

そのため日本社会は専門性を理解しない、「下ネタ」至上主義社会となっている。

 

さて、「下ネタ」至上主義社会の一番の問題は「判断基準が自分自身でしかない」ことである。

 

こうした状況を逆手にとっているのが、現在の自民党である。

 

現在の自民党はとにかく誤まることは多くても、謝ることをしない。

 

それはなぜか。

 

「謝る」という行為そのものが「万人に共通する情報」の一つ(「自分だったら間違えていたら謝る」)である。

つまり、謝った時点で万人が「間違いをおかした」と解釈する事になるのである。

それを避けるためには、謝ってはならないのである。

そして、「開き直る」ことが肝要となる。

「問題はない」、「批判には当たらない」、「自民党いいなあ」、「自民党すばらしい」・・・・・・。

こうした言説も「万人に共通する情報」であり、多くの人には「本当に間違っていたのなら、自分だったらあんなに堂々としていられないだろう」=「堂々としているから間違っていなかったのだ」という解釈につながる。

 

つまり「万人に共通する情報」を利用して、自分を正当化してみせるのが安倍内閣、ひいては現在の自民党のやり方なのである。

 

そうした戦略は自民党国会議員の中では共通認識となっているのか、杉田水脈などの自民党議員も堂々とヘイトを行っていて、「下ネタ」至上主義社会を利用した「下ネタ」議員どものなんの専門性も生産性もない言説に、ただただ憤りと無力感を感じられずにはいられない今日この頃でございます。

 

こうした「下ネタ」利用も「ナチスの手法」とやらを学んだ結果なのでしょうかね・・・・・・。

 

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ちなみにヨモギサワがやっているヒトジュクは、簡単に言えば脱「下ネタ」至上主義社会を掲げて教育を行っておりますが、その異質性と即効性の無さと不徳の致すところによって「脱ヒトジュク」を目指す利用者が後をたたない有様でございます。

 

ああ、無力……

 

(ちなみに上の文章、接続が分かりづらいなどありましたら、書き直しますので、お申し付けください)

西野カナ「トリセツ」

あけましておめでとうございます?

 

寒中お見舞い申し上げます?

 

どうやら、どちらも時期を逸してしまったようです……

 

改めまして、こんにちは、木村拓哉です。

 

じゃなくて、ヨモギサワです。

「違うだろ、このハゲーー」の声が画面の向こう側から聞こえてきそうですね。

 

他人の名前を騙るなんて、倫理的でない事ですよね。

すみません。流行りにのって「不倫」とやらをしてしまったようですwww

 

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年末から引いた風邪のせいで、家に引きこもっていた三が日。

 

ただ風邪のおかげで、数年ぶりに紅白を見たり年越しそばを食べたり大晦日らしい事ができました。

元日は録画した「カウントダウンTV」や「さんタク」をみていました。

 

その中で気になったのが、西野カナ「トリセツ」。

 

いままでメロディーしか聞かず、歌詞を見た事がなかったのですが、今回、ゆっくりテレビをみていたので、歌詞のテロップも見る事ができ驚きました。

 

なんともすごい歌詞ですね、あれ……

 

基本的に「表現」には何らかのメッセージが込められていて、表現のプロであればメッセージだけでなくその対象も想定していると考えているのですが、そうすると不可解な事態が……。

 

表現のメッセージは、例えば「私を知って」、「私を離さないで」、「頑張れ」、「大丈夫」、「ここまでおいで」などなどいろいろ考えられる訳ですが、まずそこでつまずきます。

 

あの歌詞のメッセージって何なのさ?

 

歌詞の内容自体はとても個人的な事です。

にも関わらず、日本中(世界中?)に発信されているという現状……。

 

つまり、歌詞自体にメッセージがあるのではなく、あの歌詞を日本中に発信する事にメッセージがあると考えるしかない。

 

でも、それって一体???

 

ここでメッセージについては一旦保留にして、対象について考えてみます。

 

歌詞自体の対象は「恋人」や「配偶者」なのでしょう。

でもそれを日本中に発信しているという事は、なんらかの対象というかターゲットが見込まれると誰かさんが考えたからなのでしょう。

 

じゃ、それは誰?

いったい誰なの???

 

こんな風に考えていると、対象が浮かび上がってきます。

 

それは、

 

「他人を自分の思い通りにしたい人」

 

つまり、取扱説明書を渡す事で自分の思い通りに自分を動かしてもらい、取扱説明書を渡される事で自分の思い通りに相手を動かせる、という相互関係が成立する訳です。

 

すると、そのメッセージは

 

「他人と関わる際に衝突するのはめんどくさいから、先にお互い線を引いておくのが大事」

 

って事にでもなるのかしら。

 

ただ、そうしたメッセージの下で形成される社会とは

 

「文句いうくらいなら、自分のトリセツを書いてこい」

「トリセツも出さずに、文句言うなんてめんどくさい奴」

「トリセツ出さないなら、何したっていいんでしょ」

「トリセツも出せない自分ってダメな人間」

・・・・・・

 

となるのではないかしら。

 

ヨモギサワはそんな社会はクソだと考えています。

だからこそ「トリセツ」の歌詞を見て、気持ち悪すぎて驚いたのです。

 

世の中の表現者の皆様には、一人の人間が一人の人間として生きるのを挫くクソみたいなメッセージを垂れ流すのは控えて頂きたいものです。

もし、そういうつもりじゃなくクソなメッセージを流してしまったのであれば、それは表現者としてのレベルが低いということなのでしょう。

 

ただ、自他の区別をつけられないクソを励ますメッセージで励まされる方たちにしてみれば、一人の人間として生きる事を模索する私のような人間がクソに見えるのかもしれませんね。

 

ま、それも面白いか……

 

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今回は「トリセツ」の歌詞だけを取り上げて考えてみましたが、「西野カナという文脈」でみると、違った意図が見えてくるかもしれませんね。

それでもヨモギサワにとって「トリセツ」の歌詞がクソだという事には変わりありませんが…。

 

という事で、今回は木村拓哉の話…じゃなく「トリセツ」の話をしたので、次回は予告通り不倫…じゃなくて「下ネタ」の話をするつもりです?!

 

こんかい一気に2本の記事をアップしようと思ったのですが、すぐ上のような間違いを連続でしてしまうくらい疲れましたwww

 

今日はここまで!!!

表現者としてのレベルが低い私の文章を、ここまで読んで頂きまことにありがとうございました!!!

 

今年もよろしくお願いしますね。

「人権についての覚え書き」の補足と衆院選2017とについて

前回の「人権についての覚え書き」への補足を少々。

 

hitojuku.hatenablog.com

 

 前回の話、元々決めていた締めの言葉を書き忘れていましたので、今回、補足として書いておきます。

 

【補足】

 私が「人権」を主張しているのは「人権という思想が素晴らしい」とか「誰もが進じるべきもの」と考えているからではありません。

 この事は、前回の記事をお読み頂ければお分かり頂けると存じております。

 「個人に根ざした人権」は思想・信条・習慣・生活環境・年齢・趣味などに関わらず対話によって一定の合意に達する事ができる可能性をもっていると考えているため主張しているのです。

 つまり、あなたと私とでは「人権」以外で無理してわざわざ重ねる必要のある事はないでしょ、って話。

 さらに言えば、「人権」を前提とする気がないのであれば離れていてください、って話。

 もし関わる事がございましたら、よろしくお願いしますね。

 

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さて、お次は「衆院選2017」について!!

 

 枝野氏ファンの私としては、今回、立憲民主党という政党ができてくれた事は大変嬉しい。

 さらに立憲民主党ができたことに呼応して、共産党が70近くの小選挙区で候補を取り下げた動きの速さも素晴らしい。

 

 という事で、立憲民主党共産党とに表を投じようと考えていたのですが、私の住む地域である群馬2区に立憲民主党の候補はおらず……。

 

 結局、共産党のみへの投票となりそうです。

 

 ちなみに今回、民進党から希望の党へと合流した議員には未来永劫投票しないよう気をつけていきたいと思います。

「人権」についての覚え書き

ブログに久しぶりはありやいなや。

 

更新が滞り過ぎてしまいがちで、いっそ「久しぶり」なんて書くのをやめてしまおうなんて開き直っちゃろうと企んでおります今日この頃でございます。

 

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

私、僭越ながら、相変わらず元気です。

 

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さて、今回は「人権」について。

 

いつかまとめたものを書こうと思っているのですが、今回は覚え書きとして。

 

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「人権」と言うと、眉に唾をつけ始める輩がわんさかいらっしゃるこの日本社会で、あえて「人権」を叫んでみたりしている、どうもヨモギサワです。

 

 

①「人権」と言い始めたキッカケ?

ヨモギサワがなぜ「人権」と言い始めたかというと、現代社会において一番通じやすい言葉だから。

私は「個々主義」を自称しているのだが、その主義の原則に

「『根拠のない他者否定』の否定」

というのがあり、これが「人権」の考え方とほぼ同じと思い使い始めたのっす。

 

②「人権」の定義?

ただ「人権」という言葉を使っていて感じるのは、定義の不安定さ。

日本社会では価値(抽象概念)を表す言葉の定義が往々にしてバラバラ。

「人権」もその例に漏れず。

ただ各人が定義を設定しているならまだしも、定義無しで使用する方も多い。

それは、まるで数個の定理しかしらないのに、ある公理系のすべてを使いこなしていると勘違いしているみたいな所業……(自分で何を言っているのか分からない?!)。

言葉の定義とは言葉の「核」とも言える事なので、原生生物風の言葉を喋る方と話をしても、文字通りお話しにならない。

 

とりあえず、私がみたところ、「人権」の定義には「マクロ(集団)に根ざすもの」と「ミクロ(個人)に根ざすもの」とがある。

 

「マクロ(集団)に根ざすもの」は属性ごとの人権、例えば、性別であったり、国籍であったり、セクシャリティであったり、職業であったりと種々多様である。

「ミクロ(個人)に根ざすもの」は個人における人権。

 

私にとって人権は「ミクロ(個人)に根ざす人権」が所与のものとしてあり、その上で、ケースバイケースで「マクロ(集団)に根ざす人権」を対症療法的に主張していくものである。

しかし、人権を主張する方の中には、出発点が「マクロ(集団)に根ざす人権」の方もいらっしゃる。

そうした方々にとって人権は誰かに与えてもらうものであったり、当事者以外の人権の主張を認めなかったりする。

 

ヨモギサワにとっての「人権」

上記の通り、私にとって人権とは「ミクロ(個人)に根ざすものである」。

 

その基本原理は

「『根拠のない他者否定』の否定」=「私は私でいい、あなたはあなたでいい」

「誰にも属さず、誰にも属されず」

「自分自身の主権を持つ」

といったもので、実はこれらは「個々主義」の原則と一緒。

 

④現況

大層な事を並べて来たが、そんな私も普段からなかなかの人権侵害をしている。

一方、いくら「人権」について語ろうとしても、言葉の定義もせずに話す人間が大多数を占めるこの社会では、伝わりもしない。

さらに、私が考える「人間らしさ」というのは、この社会では「男らしさ」なのではないか、という問題もある。

例えば「自分で考えろ」、「自分で決めろ」といった事をよく言うのだが、この社会ではその行動様式が男のものと考えられている節がある気がする。簡単に言ってしまえば「ジェンダー」についての話なのだが、「ジェンダー」を当たり前の事として生活している人々の目には、当たり前を否定する人間は変人としか映らないだろう。

自分の身の回りで「人権」の共通認識をいかに形成するか、それが現在の課題である。

 

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とりあえず「人権」について「講・the・ヒトジュク」でもやろうかしら。

 

前に言っていると思いますが、ヒトジュクという個人塾やってます。

アメブロアカウントも持っています↓↓↓

 

http://profile.ameba.jp/hitojuku2011/?frm_id=v.mypage-profile--myname

 

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まとまった時間が取れず、3日に渡ってこのブログを書いていたのですが、何を書こうとしていたのか忘れてしまったので、終わりに致しました。

 

では、またそのうち。。

部活動問題と日本の学校教育

最近、忙しいふりをするのに忙しい、どうもヨモギサワです(笑)

 

皆様お久しぶりでございます。

 

 

先日、こんな事をツイートしたのだが、この事について数点記しておく。

 

・教える人間に時間があっても、教え方を変えない限り差は出ない

・この際、教え方は大別して「1+1型」か「全体→部分型」に分かれる。

・日本では「1+1型」の教授法が主流であり、教える人間も「1+1型」の教授法しか知らない事が多い。

・「全体→部分型」で教えている人はいるのだろうが、私自身は数人しか知らない。

・ちなみに上記ツイートで引用した記事の記者のイメージしているのは「1+1型」教授法であると予想される。なぜなら「1+1型」だからこそ、時間の積み重ねを教員に保障しようとしていると考えられるからである。

 

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さて、今回の本題は「部活動と日本の学校教育」についてである。

 

日本には学習指導要領という各年齢での課程があるため、現場の教員は割り当てられた事だけの完成度を競い合う事になる。

 

この状態を「ベルトコンベア式教育」と私は読んでいる。

 

そして自分の担当している長さの「ベルトコンベア」をなんとか乗り切らせてあとは別の人にお任せとなる。

 

教員はうまくいかなかったら、前担当のせいにしたり本人のせいにしたりし、たまたまうまくいった例だけを自分の手柄にして、のうのうと教員生活を続ければいいだけである。

 

日本の公教育担当者は何とも気楽で羨ましい限りである(棒)

 

「ベルトコンベア式教育」でなんとかなると勘違いしているそもそもの原因が「1+1型」の教授法でもあるのだが、気付いていないのか、気付かないフリをしているのか、それで問題ないと思っているのか、甚だ不可解である。

 

ここに現在、巷で問題となっている「部活動」が出てくる。

 

部活動は学習指導要領に明記されていない活動であり、職務外活動であるのにも関わらず強制的に顧問にされ残業を強いられたり、休日出勤させられたりしている、として現場の教員が制度改善を訴えている。

 

一方、私にとって興味があるのは「児童・生徒にどんなメリットがあるのか」だけである。

 

 

・「思考停止」なのは「部活動」のせいですか?

・生徒は部活に加えて上記のような宿題もやらされているのに、なぜ教員の労働問題ばかり訴えているのですか?生徒の人権問題は棚上げですか?

・学校外活動の宿題によって成績をつけているあなた方が、どうして職務外の部活動で評価されている人間を揶揄するのですか?

・本当の被害者はいったい誰なのですか?本当に教員なのですか?

 

「部活動」という課題をクリアする事で、どんな社会を、どんな教育を実現したいのかという目的がさっぱり見えてこないところが、「あ〜、どうせ大した教授スキルも持っていないのだろうな〜」と感じさせる。

 

では、そうした現場のみなさんのうち、悪目立ちしている教え方マインドは以下のツイートのリンク(まとめ)をご覧下さい。

 

 

こうした話の元になってるのが「掛け算順序」の問題である。

 

巷では「3×4」と「4×3」とは全然意味が違うと教えている教員がいるらしいのである。

 

とうとう算数教育でも、空気を読ませ始めているようだ。

 

確かに、世の中では「忖度」とやらが知らぬ間に流行っているようである。

 

文章を書いていたら頭が痛くなってきたので、この辺で切り上げる事に致します。

 

さて、頭が痛い私は「コンタック」でも飲んで寝ますねww

 

現場の教員には児童・生徒の模範となるべく、自身の待遇改善を堂々と行って欲しいものである。

 

ということで、おやすみなさいませ。。 

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・上記の教育現場の状況は、私が見聞きしたものである。もし全然違うというのであれば、いろいろ発信して頂き、教えて頂けたら幸いである。

 

・宿題の出し方について→伊勢崎市では数年前から「ワーク3回」が主流のようだ。これが群馬全体でもそうなのか、日本全体でもそうなのかはわかりません。だれか調べておくんなまし。

 

 

エイプリルフールの嘘と真実

不定期更新、ヨモギサワの思考録ブログへようこそ。

 

「エイプリルフールの嘘と真実」なんて大層な題名をつけてみましたが、楽しんでいただけたら幸いにございます。

 

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2017年4月1日(土)

例年通り「エイプリルフール」と称して世の中に見え透いた嘘がいつも以上に溢れているようです。

 

そういえば天気予報でも「雨時々嘘」なんて言ってました。

 

そんな嘘にも種類があるようで、かるく分類してみると…

 

①奇想天外系

②自虐系

③真実系

④どっちでもいい系

 

に分かれるでしょうか。

 

 ①奇想天外系

これは言わずもがな、とにかく明らかな嘘。

企業などが発信者であることが多いようです。

 

 ②自虐系

個人での発信者に多いのがこのタイプ。

 

 「結婚しました」

 「ダイエット成功しました」

 「モデルみたいな恋人ができました」

 「会社辞めました」などなど

 

これらの嘘は、発信者の日頃のコンプレックスやストレスが垣間見え過ぎて、なんだかいたたまれない気持ちになります。

 

「今後の活躍をお祈り申し上げます」

みたいな某テンプレを返信したくなります。

 

 ③真実系

一見、上記の「自虐系」かと思いきや、嘘ではないのがこのタイプ。

年度の切り替わり、というのもあり、仕事関係の話も多いです。

更には、エイプリルフールに合わせて本当に結婚するカップルもいるとかいないとか…。

 

一周回っちゃっているエイプリルフールの楽しみ方を提供して頂き、ありがとうございます?!

 

 ④どっちでもいい系

エイプリルフールでよくあるのが、嘘だかなんだかよくわからない系のコレ。

 

「重大発表があります」

「生き方を変えます」

「寄付を受け取りました」

「寄付はしていません」

「詩人になります」

「私人です」

 

こうした言説の発信者は4月1日に限らず、一年中同じような事を言い続けているので、面倒くさくなって「どっちでもいい」と思わせてくれます。

そしてこれこそが、彼らの狙いなのかもしれません。

 

童話の「オオカミ少年」では「嘘をつき続けた少年がオオカミに食い殺されてザマアミロ(勧善懲悪)」という風の解釈が多いですが、ヨモギサワからすると「嘘をつき続けた少年を羊の番につかせ続けたくせに、最後まで嘘に付き合ってやらなかった大人がアホウ」と考えています。

嘘に付き合う気がないのなら、少年が嘘をついた時点で、交代させなければいけないですよね。

オオカミ少年の話を聞くと「未然の故意」なんてのが頭に浮かびます。

 

もとい、どっちでもいい系の嘘をつく人には気をつけましょうw

 

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 そんなこんなで、せっかくのエイプリルフールですので、それにちなんだ記事を書いてみました。

 

といいつつ

 

 

こんなヨモギサワですので、この記事自体の信憑性も……。

 

ホント「どっちでもいい系」の嘘をつく奴はタチが悪いですね。

 

と「自虐系」も付け加えておきましょねwww

 

なんていいつつ、実は「真実系」だったりして……

 

そこのところは、ここまで読んで下さった皆様のご想像にお任せして、ではまたそのうち。。