ヨモギサワ・ヨコボリ・ヒロフサ

思考の結果を徒然なるままに…

「人権」についての覚え書き

ブログに久しぶりはありやいなや。

 

更新が滞り過ぎてしまいがちで、いっそ「久しぶり」なんて書くのをやめてしまおうなんて開き直っちゃろうと企んでおります今日この頃でございます。

 

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

私、僭越ながら、相変わらず元気です。

 

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さて、今回は「人権」について。

 

いつかまとめたものを書こうと思っているのですが、今回は覚え書きとして。

 

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「人権」と言うと、眉に唾をつけ始める輩がわんさかいらっしゃるこの日本社会で、あえて「人権」を叫んでみたりしている、どうもヨモギサワです。

 

 

①「人権」と言い始めたキッカケ?

ヨモギサワがなぜ「人権」と言い始めたかというと、現代社会において一番通じやすい言葉だから。

私は「個々主義」を自称しているのだが、その主義の原則に

「『根拠のない他者否定』の否定」

というのがあり、これが「人権」の考え方とほぼ同じと思い使い始めたのっす。

 

②「人権」の定義?

ただ「人権」という言葉を使っていて感じるのは、定義の不安定さ。

日本社会では価値(抽象概念)を表す言葉の定義が往々にしてバラバラ。

「人権」もその例に漏れず。

ただ各人が定義を設定しているならまだしも、定義無しで使用する方も多い。

それは、まるで数個の定理しかしらないのに、ある公理系のすべてを使いこなしていると勘違いしているみたいな所業……(自分で何を言っているのか分からない?!)。

言葉の定義とは言葉の「核」とも言える事なので、原生生物風の言葉を喋る方と話をしても、文字通りお話しにならない。

 

とりあえず、私がみたところ、「人権」の定義には「マクロ(集団)に根ざすもの」と「ミクロ(個人)に根ざすもの」とがある。

 

「マクロ(集団)に根ざすもの」は属性ごとの人権、例えば、性別であったり、国籍であったり、セクシャリティであったり、職業であったりと種々多様である。

「ミクロ(個人)に根ざすもの」は個人における人権。

 

私にとって人権は「ミクロ(個人)に根ざす人権」が所与のものとしてあり、その上で、ケースバイケースで「マクロ(集団)に根ざす人権」を対症療法的に主張していくものである。

しかし、人権を主張する方の中には、出発点が「マクロ(集団)に根ざす人権」の方もいらっしゃる。

そうした方々にとって人権は誰かに与えてもらうものであったり、当事者以外の人権の主張を認めなかったりする。

 

ヨモギサワにとっての「人権」

上記の通り、私にとって人権とは「ミクロ(個人)に根ざすものである」。

 

その基本原理は

「『根拠のない他者否定』の否定」=「私は私でいい、あなたはあなたでいい」

「誰にも属さず、誰にも属されず」

「自分自身の主権を持つ」

といったもので、実はこれらは「個々主義」の原則と一緒。

 

④現況

大層な事を並べて来たが、そんな私も普段からなかなかの人権侵害をしている。

一方、いくら「人権」について語ろうとしても、言葉の定義もせずに話す人間が大多数を占めるこの社会では、伝わりもしない。

さらに、私が考える「人間らしさ」というのは、この社会では「男らしさ」なのではないか、という問題もある。

例えば「自分で考えろ」、「自分で決めろ」といった事をよく言うのだが、この社会ではその行動様式が男のものと考えられている節がある気がする。簡単に言ってしまえば「ジェンダー」についての話なのだが、「ジェンダー」を当たり前の事として生活している人々の目には、当たり前を否定する人間は変人としか映らないだろう。

自分の身の回りで「人権」の共通認識をいかに形成するか、それが現在の課題である。

 

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とりあえず「人権」について「講・the・ヒトジュク」でもやろうかしら。

 

前に言っていると思いますが、ヒトジュクという個人塾やってます。

アメブロアカウントも持っています↓↓↓

 

http://profile.ameba.jp/hitojuku2011/?frm_id=v.mypage-profile--myname

 

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まとまった時間が取れず、3日に渡ってこのブログを書いていたのですが、何を書こうとしていたのか忘れてしまったので、終わりに致しました。

 

では、またそのうち。。