ヨモギサワ・ヨコボリ・ヒロフサ

思考の結果を徒然なるままに…

大学卒業後の職歴①(市進学院の話)

ここ数年

「そばかすなんて♪ 夕波小波♪ 家に帰ればセキスイハイム♪」

というメロディーが頭から離れません。

 

どうも違いの分からないヨモギサワです。

 

ちなみに上のメロディーは

キャンディ・キャンディの主題歌

瀬戸の花嫁

セキスイハイムのCMソング

 

暑さ寒さも彼岸まで、なんて言いますが、群馬は昨日から暑めでございます。

 

さてもう2015年度も終わりに近づいてきましたので、大学卒業後の職歴を紹介します。

 

 

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〜1週間で終わった就活〜

①「卒業後に稼がねば」と思い、2005年11月頃にネットで「塾講師」の職を検索

②条件の一番良い「市進学院」の契約社員募集に申し込み

③次の日に「説明会があるから2日後に来て」と電話

④説明会に行ったらテストを受けさせられる

⑤テスト2日後にテスト通過の電話

⑥2次面接(模擬授業)→英語の過去分詞についての授業("speak"の時制変化も怪しかった)→授業の意図や志望動機を問われる

⑦面接2日後くらい(?)に採用決定の電話

 

(当時の、市進学院の素晴らしさは、説明会や面接の度に交通費が支給(一律千円)された事と、決定までの時間が早かった事。

アルバイトの面接でさえもっと時間がかかったり、採用・不採用の電話すらしてこないところもあるのに……。

未だに、市進学院より素晴らしい待遇の就職面接に出会った事がない。)

 

 

〜市進学院での研修〜

「五者であれ」

「市進の研修受けていれば、どこの塾でもやっていける」

 

2005年12月から始まった研修でまず言われたのが上記2つ。

当時は研修でも満額の日給をもらえていた。

 

研修の流れとしては「過去問・学校研究→模擬授業」が基本的な流れだった。

「過去問・学校研究」といっても、形だけだったが、実際に現場に出た時の指針になった。

「模擬授業」は「大きい声」が重要視され、台本を「コピー」する段階→板書を早くする段階→……とテーマも設定されていた。

 

(私は最初テーマ設定に気付かず好き勝手模擬授業をしてしまったのだが、研修担当Y先生はしっかり研修の意図を説明してくれた。

塾の研修だけあってしっかりと教育をしていたのはさすがである。研修担当の先生が素晴らしかったのが幸いしたのかもしれない。

この研修の時に教わった「既知→未知」、「具体→抽象」といった指針は現在も私が心掛けている事である。

また同時期に読んだ向山氏の本も、研修内容と重なる事が多く参考になった。

 

授業の腕をあげる法則 (教育新書 1)

授業の腕をあげる法則 (教育新書 1)

 

 

ちなみに向山氏の本はこの1冊しか読んでいない。)

 

 

〜市進学院1年目(2006年3月〜)〜

とにかく最悪の「クソ講師」だった。

市進学院には授業マニュアルがあり、年度の前半はほぼマニュアル通りの授業だけをやっていただけだった。

また教材も把握していなかったので、チェックテストを自作したり、ポイントをまとめたプリントを自作したりもしていた。

しかし生徒には全然学力がつかない。

中3でアルファベットを最後まで言えない生徒がいたのも衝撃的だった。

そんな状態で、年度後半には「年度始めからやり直せたらどんなにいいだろう」と考えていた。

この話を、ちょっと漏らしたら「それは言ってはいけない」と同僚に怒られた。

ホント、私は最悪の講師であった。

いったい何人の生徒を犠牲にしたのだろう……。

今、思い出しても恥ずかしくなる。

 

いっぽう、いいとこ無しだった代わりに、春期講習の新人研修では現在の私の「漢文風英語教授法」に繋がるヒントをもらったり、「1+1型」ではなく「全体・部分型」教授法のキッカケを掴んだりと一番私が成長した年でもあった。

 


〜市進学院2年目(2007年3月〜)〜

別の教室に移動した。

 

1年目の反省をいかし

・どんな意図をもって物事を教えているのか

・この1年がどんな流れになっているのか

といった事を生徒に話すよう努め始めた。

 

例えば、

・(当時の市進学院では、宿題をやったり、テストの成績があがったりするごとにポイントを付与していた(小学生のみ)事に関連して)

「『誰かに褒められたい』、『褒美が欲しい』といった動機で勉強をするのはサーカスの動物と一緒ですよね。私はサーカスの調教師にはなりたくないので、ポイントは一律で差し上げます。ヨモギサワに、気に入られようが気に入られまいが受験に影響ありません。そんなことよりも『自分で自分を褒められる』ようになって下さい……」

ただ、この話は研修でも、向山氏の本の中でも触れられている話である。

・「みなさん『大人』ってどうになるか知ってますか?ただ寝て、起きてを繰り返すだけでは今の状態のまま大きくなるだけです。みんなは今の状態のままで家の人みたいに働いたり、近所付き合いしたりできますか?もし出来ないと思うのであれば、今の状態を少しでも変えるために勉強して下さいね。」

・「野球のゲームだけをしていても、技術向上には限界がありますよね。だから投げる練習・打つ練習・走る練習を別々にやるわけです。教科に分けて勉強するのは野球の動きをで別々に練習するのと一緒です。分けてやったあとに、自分の中で総合しなければなんの意味も無い。『練習のための練習』なんてやっている場合じゃない。じゃ、みなさんの勉強はなんのためにやっているのか?受験をなんのためにするのか?しっかり考えていきましょう」

・「『知らない』状態や『できっこない』と思っている状態だと、ちょっとした事でも『壁』に感じてしまいます。既にできる人からみたら、そういう人は自分で勝手に道ばたの小石を『壁』だと思っているように見えます。そういう人を『バカ』といいます(笑)私がみんなの事を『バカ』と言ったり、舌打ちしたり、ため息をついたりしたら、自分は小石の前で立ち止まっているんだと思い出して下さいね……」

といった話。

いま考えても、「バカ」や舌打ちやため息は最低……orz

基本的に小学生にこうした話をする事が多かった。

中学生は本人達が勝手に話をするので聞き役にまわったが、小学生は授業に関するおしゃべりはあまりしなかったのでこちらから話す事が多かった。

 

また、2年目で周りをみる余裕が少しできた事もあり、同僚のT先生にはいろいろと学ばせてもらった。

T先生に言われた「『生徒をただ拘束すればいい』って話ではない。市進は『短い時間で効率よく学力をつけるのが基本スタイル』」という話は今も心に刻んである。

「生徒の人生を奪いながら、授業をしている」という事を忘れてはならない。

 

一方、自分の授業スタイルが確立してきた事もあり「指導書」なんてのを書いてみようと思い始めたのもこの時期であった(未だに完成せず)。

 

 

〜市進学院3年目(2008年3月〜)〜

2年目はある程度、生徒に学力をつける事の一助になれた反面、いろいろと反省点もみえてきた。

・自分自身の教務力不足、知識不足への不安

・「教えすぎていないか?」という不安

・「教え方が独特すぎないか?」という不安

・ベルトコンベア式教育の限界

 

この年度に小学生の保護者との面接で言われた言葉は今も印象に残っている。

それは

「大人と同じ読み方を、子供ができなければならないのですか?」

という言葉。

「中学受験で求められている読み方は、自分の好きなところを好きに読む『読書』ではなく、書いてある事を書いてある通りに読む『読解』ですので……」

といった感じで返答した覚えがある。

(その後「中学受験をするから必要なのか?」と自問自答し続けている。

社会で「読解」的コミュニケーションが出来ている大人なんてめったにいない。

みんな「読書」的コミュニケーションで済ましている。

もちろん、テスト形式になれば「読解」スキルを使う人間は多いだろう。

でも普段のコミュニケーションでは利用しない。

その程度の学び、その程度の社会に私は住んでいる。

自問に対する私の答えは「適齢期以上になったら、全員に必要」である。

「適齢期」とは「自他の区別がつき始める頃(=思春期)」。

ただ、「読解」を実践のために教えている人ってどれだけいるのだろう?

私は会った事が無い……。)

 

元々は、学校教員になる前に、しっかりとした指導力(授業力)をつけたくて始めた塾講師の仕事。

しかし、市進という特殊な環境(担任制・複数教科指導)にいて、私の中の「学校をつくりたい」という中学生の頃から抱いていた思いが再燃した。

「塾を開業してしまおう!!」

これが私の運の尽きwww

そんな思いから、文系講師から理系講師に変わる事になる……。

さらに、知識不足を補充するためには理系の大学進学(これも高校の時から抱いていた思い)が必要と考え、その資金づくりのために新聞配達のバイトも始めた。

 

 

〜市進学院4年目(2009年3月〜)〜

なんやかやあって理系講師に変わったのだが、この時期の市進は不景気・少子化・個別指導塾の台頭……の影響で試行錯誤の過渡期にあり、内部は経営陣はぐちゃぐちゃであった。

 

理系講師としての研修をお願いしていたにも関わらずウヤムヤにされ、不必要にシフトを契約と違う風に入れられ、1年目では犠牲が大きすぎると拒否していた中学受験生を受け持たされ、年度の途中(夏期講習直前)で中1の担当を外され…とさんざんだった。

 

中学受験生を拒否していたのは、地方出身の私にとって中学受験算数がさっぱりどんなものかわからなかったので、理系転向1年目はその把握に努めたいという気持ちがあった(市進1年目の惨劇を繰り返したくない気持ちも強かった)。

ただ受け持ってしまった以上は全力でやった。

(私はこれでも常に全力なの……。)

この3年間の教育スキルの蓄積もあり「中学受験算数の5つの方針」なんてのを元にしたスタイル身につけた。

(自分のスタイルでしか教えられないのは、今も悩みの種)

それでも基本問題しかできるようにはならなかった。

文章問題になると……orz

 

そんなこんなでも、なんとか1年を乗り切ったのだが、契約更新の際に提示された5年目の基本給は、ネットで募集をかけている新人講師の基本給よりも低いものであった。

ま、仕方ない、と思いながら一度はハンコを押したものの

「必要とされないのなら、辞めよう」

と思い直し、退職願を提出した。

 

別になんの当ても無く辞めた。

 

「必要とされないなら辞める」

 

ただそれだけの話。

 

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機関車トーマス風に言うと「役に立つ機関車になりたい」かしらwww

 

最近、トーマスを見る機会があったのだが「やりがい搾取」という言葉が頭から離れない…orz

 

という事で今週はここまで。

来週に、つづきます。。

 

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そうそうだいたいの年収を書いておきます。

もし塾業界への就職を考えている方がいらっしゃいましたら古い話ですが参考にして下さい。

 

1年目:330万

2年目:300万

3年目:320万+30万

4年目:320万+100万

 

※額面です。

契約社員は週4日勤務(5時間10分)でした。

※当時は週5日勤務の契約社員もいて、そちらは30万円プラスになる感じです。

※今は給与体制が変わっているのであまり参考にならないかもしれません。

※3年目と4年目の追加は新聞配達(朝刊のみ)の収入です。

 

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その後、転職してみたり、アルバイトしてみたりしましたが、これらより多くもらえた事はありません。

その辺の話はまた来週。。