「下ネタ」
「次回は『下ネタ』について・・・」
と書いてからはや半年。
24日にブログを半分ほど書いたにも関わらず、下書き保存せずにスリープ状態にしたらデータが消え、書き直しに。
仕方がないので簡潔に「下ネタ」について。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「下ネタ」は共有されやすい話題の一つ。
なぜなら大半の人は下半身を持っているから。
共有されやすいネタとしては「天気ネタ」もある。
しかし話題の広がる可能性は「下ネタ」の方が大きい。
これは各自が持つ情報の量による。
つまり、人は「自分の知っていることだけ」を話題にできる(興味を持てる)といえる。
多くの人は天気について考えるよりも、自分の下半身に関連することを考えている。
このことが何につながるか・・・・・・。
たとえば素晴らしい作曲家がいたとする。
その曲の素晴らしさによって多くの支持を集める。
その支持する人々の多くは音楽についての情報を持ち合わせていない。
すると、その音楽の何が素晴らしいのかを言語化できない。
それでも、その作曲家のことを話題にしたい。
そこで行われるのが、曲とは関係ない情報による話題づくりである。
作曲家の食事、服装、住まい、ペット、恋愛、人間関係・・・・・・。
今のままの自分でも理解できる情報で相手を理解したつもりになっていく。
すると、どんなにいい曲を作ろうと、療養中のパートナー以外との人付き合いをしただけで非難が集中し、引退に追い込まれたりする。
同様のことは、俳優に対しても、アスリートに対しても、科学者に対しても行われる。
俳優もその演技や作品ではなく、アスリートもそのパフォーマンスではなく、科学者もその研究成果ではなく、食事内容や服装、恋愛事情によって評価される。
では、なぜその音楽性、演技、作品、パフォーマンス、研究成果が評価されないのだろうか。
それは、人々に新しい情報を仕入れるインセンティブが働いていないからである。
「みんな同じ」
「気持ちがあればわかりあえる」
「頑張ればなんとかなる」
もしかしたら、こうした教育を受けている(きた)のではないだろうか。
しかし、この思想によって扱われる情報こそ「万人に共通する情報」=「下ネタ」なのである。
アーティスト、アスリート、科学者を「素晴らしい」たらしめているのは、「万人に共通する情報」ではなく、「専門性」である。
そしてその「専門性」を身につけるための入り口までたどり着かせるのが、中等教育の使命なのである。
けれども、日本の学校教育はその使命を果たせていない。
そのため日本社会は専門性を理解しない、「下ネタ」至上主義社会となっている。
さて、「下ネタ」至上主義社会の一番の問題は「判断基準が自分自身でしかない」ことである。
こうした状況を逆手にとっているのが、現在の自民党である。
現在の自民党はとにかく誤まることは多くても、謝ることをしない。
それはなぜか。
「謝る」という行為そのものが「万人に共通する情報」の一つ(「自分だったら間違えていたら謝る」)である。
つまり、謝った時点で万人が「間違いをおかした」と解釈する事になるのである。
それを避けるためには、謝ってはならないのである。
そして、「開き直る」ことが肝要となる。
「問題はない」、「批判には当たらない」、「自民党いいなあ」、「自民党すばらしい」・・・・・・。
こうした言説も「万人に共通する情報」であり、多くの人には「本当に間違っていたのなら、自分だったらあんなに堂々としていられないだろう」=「堂々としているから間違っていなかったのだ」という解釈につながる。
つまり「万人に共通する情報」を利用して、自分を正当化してみせるのが安倍内閣、ひいては現在の自民党のやり方なのである。
そうした戦略は自民党の国会議員の中では共通認識となっているのか、杉田水脈などの自民党議員も堂々とヘイトを行っていて、「下ネタ」至上主義社会を利用した「下ネタ」議員どものなんの専門性も生産性もない言説に、ただただ憤りと無力感を感じられずにはいられない今日この頃でございます。
こうした「下ネタ」利用も「ナチスの手法」とやらを学んだ結果なのでしょうかね・・・・・・。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ちなみにヨモギサワがやっているヒトジュクは、簡単に言えば脱「下ネタ」至上主義社会を掲げて教育を行っておりますが、その異質性と即効性の無さと不徳の致すところによって「脱ヒトジュク」を目指す利用者が後をたたない有様でございます。
ああ、無力……
(ちなみに上の文章、接続が分かりづらいなどありましたら、書き直しますので、お申し付けください)