「主権を取り戻す」について
私のTwitterプロフィールにも、ヒトジュクのTwitterプロフィールにも、「主権を取り戻す」という言葉を使っている。
この「主権を取り戻す」という事について説明しておこうと思う。
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私にとって「主権」とは「人権」の事である。
(「人権」については以前から発言しているので、そちらを参照して頂きたい。)
しかし、現在の社会において「主権」とは「国家の統治権」を指す。
さて、この状況をどうしたものか……。
「主権」の意味を「国家の統治権」から「人権」へと移行させる事が必要である。
これは「国民国家」から「個人国家」へと移行させる事になる。
つまり、現在の国境は無くなる。
物語ではなく、ミッション毎のルールを共有する事が社会維持の核心となる。
「物の所有」から、「情報の所有」そして「体験の共有」へ。
こうした「モノ」から「コト」へ、という現代の流れから考え得る帰結である。
では、この流れを生み出した原因は何か?
教育か?
政治か?
法か?
道具か?
……
これらの原因をまとめて言うと、「情報」となる。
教育の整備によって所有する「情報」の同質化が可能となる。
政治や法の働きによって「情報」の方向付けが可能となる。
道具によって「情報」の伝達の迅速化、明確化が可能となる。
この「情報」がルールとなって、社会を形成する。
だが、大きな問題が残る。
それは、私たちが「ヒト」であるという事それゆえの認知機能の限界。
この件に関する解決策は「目的の明確化、手段の適正化」くらいしか思いついていない。
認知機能に限界があるという事は、行動様式にも限界があるという事。
無い物ねだり、無い事ねだりをしても仕方が無い。
ちなみにこれは「現状を維持しよう」とか「成長を止めろ」とかいう話ではない。
むしろ「どうせ死んじゃうんだから、行けるとこまで行ってみよう」だったり、「自分が死んだとしても、生き続ける者、生まれる者はいるだろうから、その人たちに行けるとこまで行ってもらおう」だったりする。
さらには、無いと思っていた物事があったり、あると思っていた物事がなかったりする世の中である。
最善を尽くし続けるしかないのかもしれない。
といいつつも、「国民国家」から「個人国家」への移行はあと200年くらいかかるかと思う。
やっぱり「モノ」は強いし、資源を産み出す土地を手放す事は難しいだろうなぁ……。
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なんてまとまらぬ文章を書きなぐってみたが、私に社会中へ影響を及ぼす才覚も行動力も無い。
それでも意志を表明し続け、生き続ける。
ただそれだけである。
つまり私自身は私自身を一つの国家だと考えているという事。
そこんとこよろしくねwww
簡単にいうと、私は「日本人」ではなく、「ヨモギサワ ヒロフサ」だという事。
ヒトという一個体。
それ以上でも、それ以下でもない。
何言っているか分かるかしら?
イマイチ言語化がうまくいかんのよね。
今を言語化するのはどうしても難しい……。
基本的には数年前に考えた事を、やっとこさ他者向けに言語化し書いているだけだから……。
今回の話は比較的最近の考えによるから、どうもうまくいかんかったかもしらん。
それでも1年以上経っているけれどねwww
そうそう、最後に、直接的・間接的、故意・過失に関わらず私に戦争を仕掛けてくるのはやめてね。
「イラっと35」だからwww