パラダイムシフト
TLに次のツイートが流れてきた。
応用哲学会2日目。昨日からの感想として、既存の議論枠組み上でスマートな発表をする人たちのを聞いてると、私はパラダイム内部で細部を検討し詰めていく営みにまったく興味がないんだなあとしみじみ実感する。(大学院ではそういうスキルを教えてますけどね)。
— 森岡正博 (@Sukuitohananika) 2016年5月8日
〜〜〜〜〜〜〜〜
世の中では「理系」と「文系」とどう定義しているのだろう?
私はこれらを「客観」と「主観」という「視点の違い」で説明する。
「他者と共有出来る評価軸」によって情報を扱うのが「理系」で、それ以外は「文系」である。
ちなみに、「私、文系だから」とか「私、理系だから」といった慣用句は、単に「国・社・英のテストが得意でした」や「数学・理科のテストが得意でした」を意味するに過ぎず、学校卒業以降には何の役にも立たない自己紹介である。
さて、以降は私の定義によって話を進める。
「他者と共有出来る評価軸」とはなんだろう。
これは「他者」の範囲をどのように区切るかで大きく変わる。
範囲によっては、宗教も「理系」となるし、哲学も「理系」となる。
また一方では数学が「文系」となる事も考えられる。
なので、
「それでも、地球はまわっている」
なんて言っても仕方が無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜
件のツイートのなかに「その先ちょこっと論文」なる言葉が出てくる。
「理系」の学問であれば、その「ちょこっと」ずつが積み重なることで発展していく。
もし「理系」の学問においてパラダイムシフトが起きたら、それまでの「理系」は「文系」と見なされるかもしれない。
では「文系」の学問におけるパラダイムシフトとは何であろう?
そもそも「文系」の「評価軸」は他者との共有が難しい。
「評価軸」共有のために必要なのは情報・知識、体験・経験。
という事は、パラダイムシフトが起きても「気付けない」のではないだろうか。
たぶんパラダイムシフトを起こした本人は言葉を駆使して説明してくれるだろう。
しかし、パラダイムシフトの起きていない者がいくらそれを聞いても「わからない」のだろう。
逆に言えば、気付けてしまったり、わかってしまったりするのであれば、それは「パラダイムシフト」ではなく、単なる「言語化」に過ぎない。
(世の中では「言語化」=「パラダイムシフト」なのかしら???私自身は「評価軸」の変更がパラダイムシフトなのかと考えていたのだが、それも「言語化」に過ぎないと言えばその通りね……。「言語化」という言葉の範囲が広すぎるのかしら?)
ただ「その先ちょこっと論文」が「言語化」でなく、単なる「言い換え」に過ぎないのなら、確かにそれはショボいね、なんて思う。
でも「言い換え」してる本人は、それを「理系」と考えて評価軸の「目盛り」を細分化した気になっているかもしれないので、ま、触らぬバカに祟り無し、みたいな……www
ちなみに、人間がヒトであるかぎり、哲学にパラダイムシフトなんて起こらないんじゃなかろうか、というのが私の考えです。
ま、人工知能に期待してますw
人工知能が仮にパラダイムシフトなる事を起こしたとしても、人間がそれに気付けるかどうかは甚だ疑問ではありますが……orz
〜〜〜〜〜〜〜〜
なんて、私自身は「哲学家(知を愛する者)」ではありますが、「哲学学者(過去の知を研究する者)」ではないので、かの学派や学会内にどんな課題、問題があるのか一切存じておりません。
今回の話もミクロとマクロとの混同すれすれと自分では思っているのだけれど、そんな視点を、世の中で何と言うのかさえ知らん。
とにかく私自身は、違いのわからない「目盛り」不足であり、知の研究の出来ない「メモリ(容量)」不足なのでありますwww