ヨモギサワ・ヨコボリ・ヒロフサ

思考の結果を徒然なるままに…

評価という行為について

何かを「良い」と評する事は、自分自身をさらけ出す事と同じである。

「目利き」には善し悪しを判別するための知識・感性が必要である。

「良い」と表明したと同時に、評価者の知識・感性が露になる。

 

一方、何かを「悪い」と貶す事は、誰から見ても明らかな欠点を指摘するだけでよい。

どんなに小さくとも、ひとつでも「シミ」や「キズ」を見つけ出せれば貶す事ができる。

さらに評価者の安全地帯を確保できる。

何かを貶す場合は、自分自身を主語としなくてもよいのだから……。

 

Twitterを見ていて、こんな投稿を見つけた。

 

 

ちなみに私はこれらの情報を初めて知りました。

もしこの映像(番組)を見ていたら「うわっ、手抜き工事(怒)」と思っていた可能性もあった訳です。

 

自分が何を知っていて、何を知らないのか…。

自分は何を評価出来て、何を評価出来ないのか…。

知識への畏敬の念を忘れない様にしたいものです。

 

「自分は出来る」と根拠も無く思っていると、いつか人を殺すかもしれませんよ。

ま、そういう方は自分の世界だけで生きていらっしゃる事が多いので、誰かが死んでも「自分の人生劇場に出てきた通行人Aが死んだ」としか認識しないのかもしれませんね。

 

評価するという行為については過去にも何度か投稿していますが、また同じ様な話になってしまいましたw

 

さて、私自身は教育者として「人間性の評価の放棄」を表明しているのですが、その理由はいろいろあります。

ただ「自分が評価されたくないから」という理由はございません。

もしお手数でなければ、どうぞ好き勝手に評価して下さいませwww

 

ちなみに、私の仕事の方法論のひとつが「目的の明確化と、手段の適正化」なのですが「あなたの『目的』については評価しません」という事でもあります。

もちろん「手段」とその実施状況についてはチェックさせて頂きます。

 

一方、私は基本的に文句をよく言う人間です。

基本的に「私でも出来るレベル未満の職業人(活動者)」に対して文句を言っています。

ホント「自分は出来る」と思っている奴って嫌ですよねwww

 

 

とにかく、震災・戦災・人災にあわれた方、あわれている方、はたまた、何ともない人が、なんとか生き延び、幸せを感じる生を送りながら過ごされる事をお祈り申し上げます。。