評価という行為について
何かを「良い」と評する事は、自分自身をさらけ出す事と同じである。
「目利き」には善し悪しを判別するための知識・感性が必要である。
「良い」と表明したと同時に、評価者の知識・感性が露になる。
一方、何かを「悪い」と貶す事は、誰から見ても明らかな欠点を指摘するだけでよい。
どんなに小さくとも、ひとつでも「シミ」や「キズ」を見つけ出せれば貶す事ができる。
さらに評価者の安全地帯を確保できる。
何かを貶す場合は、自分自身を主語としなくてもよいのだから……。
Twitterを見ていて、こんな投稿を見つけた。
おいテレビ
— はやと (@Berzerk0312) 2016年4月15日
これは衝撃から守るために作られた亀裂で、エキスパンションジョイントというものだぞ。建築会社が悪いみたいに報道するな。割れる事で衝撃から守るんだぞ pic.twitter.com/6NjcbCP7rs
熊本城の瓦が崩れているが、
— な (@sinzouniwarui) 2016年4月14日
日本建築の本来の発想としては『地震時には瓦は振るい落とされ、建屋の倒壊を防ぐ』のが正しいと元建築事務所勤務の父が言っておりました。
現代では固定してしまうが。
地震発生時の煙・埃はこれですね。#nhk pic.twitter.com/XBmsQeMprd
分かりやすいよなこれ真ん中だけ四百年前のやつって pic.twitter.com/AKraxObk1w
— コウショーン (@wakatakagundank) 2016年4月14日
ちなみに私はこれらの情報を初めて知りました。
もしこの映像(番組)を見ていたら「うわっ、手抜き工事(怒)」と思っていた可能性もあった訳です。
自分が何を知っていて、何を知らないのか…。
自分は何を評価出来て、何を評価出来ないのか…。
知識への畏敬の念を忘れない様にしたいものです。
「自分は出来る」と根拠も無く思っていると、いつか人を殺すかもしれませんよ。
ま、そういう方は自分の世界だけで生きていらっしゃる事が多いので、誰かが死んでも「自分の人生劇場に出てきた通行人Aが死んだ」としか認識しないのかもしれませんね。
評価するという行為については過去にも何度か投稿していますが、また同じ様な話になってしまいましたw
さて、私自身は教育者として「人間性の評価の放棄」を表明しているのですが、その理由はいろいろあります。
ただ「自分が評価されたくないから」という理由はございません。
もしお手数でなければ、どうぞ好き勝手に評価して下さいませwww
ちなみに、私の仕事の方法論のひとつが「目的の明確化と、手段の適正化」なのですが「あなたの『目的』については評価しません」という事でもあります。
もちろん「手段」とその実施状況についてはチェックさせて頂きます。
一方、私は基本的に文句をよく言う人間です。
基本的に「私でも出来るレベル未満の職業人(活動者)」に対して文句を言っています。
ホント「自分は出来る」と思っている奴って嫌ですよねwww
とにかく、震災・戦災・人災にあわれた方、あわれている方、はたまた、何ともない人が、なんとか生き延び、幸せを感じる生を送りながら過ごされる事をお祈り申し上げます。。