虐待・体罰・イジメは楽しい
最近お気に入りだったツイッターアカウントが消えてしまった事に気付き、とても残念。
単にブロックされただけならいいのだが…orz
その方のアカウント名は確か「くちばし」さんといって、海外の人権関連アクションの情報などを発信してくれていた。
残念至極である。
さて、こうした情報発信からヒントを得て考え続けているのが「虐待・体罰・イジメ・痴漢・強姦といった人権侵害・人権犯罪は表出形態に過ぎないのではないか?」という事。
つまり
虐待をしたいから虐待をするのではない
イジメをしたいからイジメをするのではない
痴漢をしたいから痴漢をするのではない
・・・・・・
という事。
何が言いたいかと言うと、これらの問題について
「『虐待』をやめましょう」
「『体罰』をやめましょう」
「『イジメ』をやめましょう」
「『痴漢』をやめましょう」
・・・・・・
と言っても何の効果も無いのではないか、という話。
この構造は「『人殺し』をしてはいけない」と言われ続けた事で逆に「人を殺してみたかった」なんて犯罪が起こる事を彷彿させる。
(「人殺し」の大半は、一般名詞の「人」を殺しているのではなく、「○○さん」を殺しているはずなのに…。また日本では事件を「異化」するための報道も盛んなのに…。)
今週の「俺通信」はこの件について書こうと思っていたら、ちょうどTLに私が「表出形態に過ぎない」と考えている話に終始する記事が流れて来たので、私の意見をいくつかツイートした(以下の4つ)。
古谷氏の考えは、私のと違うなぁ。
①自分が「正義」の場所にいて、相手を「悪」とし断罪するのは、「支配欲」が充足され、「快感」や「面白さ」を感じる事である。
この行動が問題化(=表面化)すると、虐待・体罰・イジメや種々の犯罪となる。 https://t.co/SNdHcV9GT7
— 蓬澤(横堀)博亮 (@_hakuryo_) 2016, 1月 28
古谷氏の言う「道徳自警団」は表面化した形態の一つに過ぎないのではないかしら。
②法と道徳の対比について先日、「道徳よりまず法でしょ」という主張を木村草太氏がしていた。
一方、今回の古谷氏の場合は「道徳より法がマシだから、法『だけ』を使おう。」という主張。
両者は似て非なる話。
— 蓬澤(横堀)博亮 (@_hakuryo_) 2016, 1月 28
私は社会における道徳の必要性を否定しない木村氏の主張を支持する。
③で、私が問題と考えているのは「あなたの『正義(道徳)』を、ナゼ私が採用すると思っているの?」という疑問に帰着する「対人スキル」の未熟さであり、多数決で善悪までも決められると思っている思考のお粗末さ。
— 蓬澤(横堀)博亮 (@_hakuryo_) 2016, 1月 28
「道徳」や「道徳自警団」の話に終始するのは、今後の記事に期待しろという事なのかしら?
今回の古谷氏の記事からは新しい知見は得られなかった、というか、彼は同じ事を前にも言ってたと思うのだがデジャヴかな?
最後に、こうした問題に対する「許せません」という感想は聞き飽きたよ…orz
— 蓬澤(横堀)博亮 (@_hakuryo_) 2016, 1月 28
ちなみに木村草太氏の記事は次のもの。
Retweeted 弁護士山下敏雅 : 子どもの法律ブログ (@children_ymlaw):
木村草太准教授 @SotaKimura... https://t.co/svFlTXParT
— 蓬澤(横堀)博亮 (@_hakuryo_) 2016, 1月 26
ここからが今週の本題なのだが、貼付けたツイートにも、表題にも書いたが、人権侵害・人権犯罪を表出させる動機は「楽しい」からというのが一つにあるのではないだろうか。
「自分の思い通りに事が運ぶのは楽しいし、やりがいもある。」
多くの人がこの感覚を経験しているのではないだろうか?
これを少し進めると、次の様になる。
「自分の好き勝手に振る舞うのは楽しい。」
自分が誰かよりも「上」と感じた人はこんな振る舞いをする。
その判断材料は、年齢だったり、地位だったり、実力だったり…。
(私は特定の材料によって無条件に自分を「上」と判断する事を「差別」と呼んでいる。)
こうしたことで感じる「楽しさ」に「相手のために」という大義名分をくっつけて行われているのが虐待であり、体罰であり、イジメなのではなかろうか。
さらには、大義名分をくっつけずに、ただ自分の「楽しさ」のために他人を消費するのが痴漢、強姦の類いの犯罪なのではないだろうか。
ところで、ここで感じている「楽しさ」とは「支配」の楽しさである。
「支配」と日本語で言うとなんか特別な事に感じるかもしれないので「コントロール」、「操作」と言った方がいいかもしれない。
「自分の思い通りにしたい」・「自分の思い通りになって欲しい」という欲望・願望を他人に対して抱き、それが「自分の思い通りにするべきだ」・「自分の思い通りになるべきだ」と変質した時に行動に移されるのだろう。
最初は「思わず」だったのかもしれない。
でも、その行為が成功し続けた時、つまり、相手が自分の支配に無抵抗で居続けた(or相手の抵抗を無効化でき続けた)時、そこで感じる「楽しさ」や「自己万能感」はクセになるだろう事は容易に想像出来る。
つまり、人権侵害・人権犯罪を何とかしていくには、この「楽しさ」という「既得権益」をぶっ壊していかなければならない。
なので相手に「異常者」、「バカ」、「人で無し」、「こんな事する人じゃないと思ってた」、「自分と同じ人とは思えない」、「道徳自警団」と言ったラベリングをして、「(絶対に)許せません」なんて新たな「道徳自警団」を組織している場合ではない。
(こうして組織された集団に共通するのは「踏み絵」、「合い言葉」、「キズを見せ合う」といった儀式が用意されているのよね。)
では私はこうした事態にどう対応するのか?
そこは「教育」の出番だと考えている。
ツイッターのプロフィールに「自分の主権を自分に取り戻す」ための「教育」を行う。
Facebookのプロフィールには「『何にも属さず、何にも属させず』が理想。この状態で協力関係を築ければいいと思っています。」と書いているが、これが私の姿勢である。
ただ「教育」を連呼していると、「テスト勉強」しかしていない多くの人に誤解されるようなのだが、ま、それは私の問題ではないだろうwww
ちなみに「テスト勉強」をしている人は「知識を定期預金」しているイメージ。
テストのときだけ知識を引き出して使っている感じwww
私はいつも「現金」持ち歩いているけど、財布が小さく、穴もあいているので……orz
とにかく、近々、塾を本格始動させるつもりです。
「支配」については、私自身いままでなんどか言及しているのですが、私がファンとしてフォローさせてもらっている方も言及していたので記事を貼っておきます。
という事で、また来週。。