アメリカの大統領がトランプになったことについて
いくつものネタが思い浮かんでは、文字に起こす間もなく消えていく…
そんな4ヶ月間。
皆様、ご無沙汰しておりました。
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トランプがアメリカの大統領になった。
この一週間、世論調査でのトランプ有利の結果通りとはいえ残念至極。
昼間にテレビの選挙速報を見て、いくつかのツイートをした。
このままトランプがアメリカ大統領になったら、またこの世界が「学習しなくていい社会」に一歩近づく…。
— ヨモギサワ(ヨコボリ)ヒロフサ (@_hakuryo_) 2016年11月9日
「考えた結果」ではなく、「思った結果」だけで他者を評価し否定できるのであれば知識なんてそこまで必要ない。
「貧すれば鈍する」を体現してますね、日本もロシアもアメリカも……。
アメリカ大統領選挙においても焦点となる「健康(タフネス)」、「行動の力強さ」、「瑕疵の無さ」といったものこそ「家父長制」がとやらが社会に根強く残っている事のあらわれなのだろう。
— ヨモギサワ(ヨコボリ)ヒロフサ (@_hakuryo_) 2016年11月9日
「弱さ」とされるものがあったとしても、良い点を認め、お互いの足りないものを補い合える社会は程遠い?!
そして、トランプ当確を知ってからのツイート。
トランプが大統領になった事で、今後起こる事を考えると残念でならない…。
— ヨモギサワ(ヨコボリ)ヒロフサ (@_hakuryo_) 2016年11月9日
そりゃあ、この社会にヒトジュクがやっているような教育の需要がないのも仕方ない……。
ただし、本来の意味での「確信犯」になる覚悟をしています。私はモハメド・アリのようなスーパーヒーローではないけれど…。 https://t.co/PbMOo6qFS0
言いたい事は山ほどあるけれども、ま、以上のツイートに詰め込んだので記録のためにもブログに貼っておく。
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最後にひとつ
ヨモギサワは「個々主義者」を名乗っておりますが、その「個々主義」が一番避けたい心性は
「自分以外を認めない」
「自分と同じ者しか認めない」
といった「自分」中心の考え方しかできない状態です。
社会のそうした心性を克服するために、私は「プロの教育者」を自称してヒトジュクを運営しております。
ヒトジュクのルールには「他者と仲良く」という条項があります。
「自分」と同じ者としか仲良く出来ないような人間が社会に溢れては困るのです。
もちろんそもそもその「自分」とやらがない人間もいるわけですが……。
課題は多い。。。
「主権を取り戻す」について
私のTwitterプロフィールにも、ヒトジュクのTwitterプロフィールにも、「主権を取り戻す」という言葉を使っている。
この「主権を取り戻す」という事について説明しておこうと思う。
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私にとって「主権」とは「人権」の事である。
(「人権」については以前から発言しているので、そちらを参照して頂きたい。)
しかし、現在の社会において「主権」とは「国家の統治権」を指す。
さて、この状況をどうしたものか……。
「主権」の意味を「国家の統治権」から「人権」へと移行させる事が必要である。
これは「国民国家」から「個人国家」へと移行させる事になる。
つまり、現在の国境は無くなる。
物語ではなく、ミッション毎のルールを共有する事が社会維持の核心となる。
「物の所有」から、「情報の所有」そして「体験の共有」へ。
こうした「モノ」から「コト」へ、という現代の流れから考え得る帰結である。
では、この流れを生み出した原因は何か?
教育か?
政治か?
法か?
道具か?
……
これらの原因をまとめて言うと、「情報」となる。
教育の整備によって所有する「情報」の同質化が可能となる。
政治や法の働きによって「情報」の方向付けが可能となる。
道具によって「情報」の伝達の迅速化、明確化が可能となる。
この「情報」がルールとなって、社会を形成する。
だが、大きな問題が残る。
それは、私たちが「ヒト」であるという事それゆえの認知機能の限界。
この件に関する解決策は「目的の明確化、手段の適正化」くらいしか思いついていない。
認知機能に限界があるという事は、行動様式にも限界があるという事。
無い物ねだり、無い事ねだりをしても仕方が無い。
ちなみにこれは「現状を維持しよう」とか「成長を止めろ」とかいう話ではない。
むしろ「どうせ死んじゃうんだから、行けるとこまで行ってみよう」だったり、「自分が死んだとしても、生き続ける者、生まれる者はいるだろうから、その人たちに行けるとこまで行ってもらおう」だったりする。
さらには、無いと思っていた物事があったり、あると思っていた物事がなかったりする世の中である。
最善を尽くし続けるしかないのかもしれない。
といいつつも、「国民国家」から「個人国家」への移行はあと200年くらいかかるかと思う。
やっぱり「モノ」は強いし、資源を産み出す土地を手放す事は難しいだろうなぁ……。
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なんてまとまらぬ文章を書きなぐってみたが、私に社会中へ影響を及ぼす才覚も行動力も無い。
それでも意志を表明し続け、生き続ける。
ただそれだけである。
つまり私自身は私自身を一つの国家だと考えているという事。
そこんとこよろしくねwww
簡単にいうと、私は「日本人」ではなく、「ヨモギサワ ヒロフサ」だという事。
ヒトという一個体。
それ以上でも、それ以下でもない。
何言っているか分かるかしら?
イマイチ言語化がうまくいかんのよね。
今を言語化するのはどうしても難しい……。
基本的には数年前に考えた事を、やっとこさ他者向けに言語化し書いているだけだから……。
今回の話は比較的最近の考えによるから、どうもうまくいかんかったかもしらん。
それでも1年以上経っているけれどねwww
そうそう、最後に、直接的・間接的、故意・過失に関わらず私に戦争を仕掛けてくるのはやめてね。
「イラっと35」だからwww
2016年6月近況報告
ヒトジュクを始めて、時間的には暇なはずなのに、精神的に忙しいです。
ヒトジュク、相変わらずやってますw
先日、収入安定のためにアルバイトを探すとツイートしたのですが、なんとか清掃業に働き口を見つける事ができました。
社長は同年代の方で、独立して約10年、法人化して4〜5年(?)だそうで、一緒に頑張れたら、と思っております。
もし清掃(ジャンル問わず)ご入用でしたら、紹介致しますので、お声がけ下さい。
またチラシなどのデザインできる方も、紹介できます。
さらには家を建てたい、リフォームしたい、などといった場合でも、紹介出来る方がいますのでお声がけください。
そして、素敵なアクセサリーを身につけ、気分を華やかに自分を表現したい方、紹介できる人がいます。
もちろん紹介したからといって、必ず利用しろ、という訳ではありません。
何の見当もつかず、一か八かで暖簾をくぐるよりは、まずその道のプロに話を聞いてみるのはいかが?
という提案をするだけです。
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とにかく、知っている人で、しっかりとした仕事をする人を応援していく事。
これも私の仕事のひとつだと考えています。
誠実に、最善を尽くす。
私はまずこの事だけをやっていこうと思います。
最善を尽くす……、難しい………。
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あ、そうそう。
ヒトジュク、教室を構える事になりました。
伊勢崎郵便局のすぐ北100メートルくらいのとこに教室を持ちます。
お近くにお越しの際は是非寄っていって下さいね。
では、またそのうち。。
尾木直樹氏、駒崎弘樹氏、本田由紀氏
親に置き去りにされた子が北海道や金沢で話題になっていた先週。
私はと言えば、風邪を引いて、寒気がするので布団をかぶると汗ばみ、布団をはぐと寒い、を繰り返しておりました。
そんな中、Twitterに流れてきたツイートや記事を流し読みしていて気になったのが今回の題名のお三方なのであります。
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三田紀房『ドラゴン桜』というマンガの中にこんな喩えがあった。
「無人島に生徒と二人きり、自分だけが魚釣りの方法を知っている。さて、あなたならどうする?」
教育者としての質を判別するための問いかけ。
このブログをお読みの皆様ならどう答えるだろうか。
確かマンガの中では
「魚を釣ってあげる」
という答えに対して
「そうではなくて魚の釣り方を教えろ」
みたいなやりとりがあった。
今回、尾木ママ(尾木直樹氏)は北海道で子供が行方不明になり見つからなかった時に、
・本当に子供はそこでいなくなったのか
・両親が何か隠しているのか
・神隠しか……
といった疑念をブログに投稿していた。
そして、その事を問題視する人がいたとか……。
私自身もいろんなケースを想定していたので「やっぱ同じ様な事を考える人はいる」、なんて感想。
さて『ドラゴン桜』の喩え話と今回の尾木ママの言動とを比べるとどうだろう?
尾木ママは、魚を釣ってあげたのだろうか?
それとも、魚の釣り方を教えてあげたのだろうか?
なんて考えてもムダである。
だって尾木ママと北海道の事件とは、多分関係が無いのだから。
ブログの発言は尾木ママのシャドーボクシング(シャドーフィッシング???)と取れる。
つまり「もし自分が北海道で捜索をする立場にいたら……」のケーススタディ。
北海道の事件は「無人島」で対峙するかもしれない「仮想の生徒」と考える。
「仮想の生徒」の事を信じながらも、疑う事は忘れない。
そして、自分に考えうる限りの対策を取る姿勢を持ち続ける……。
「魚の釣り方を教えればいいんでしょ」
なんて、一つの方法しか取れないような教育関係者よりよっぽど好感が持てる。
「生徒」から目を逸らさず、「生徒」の状態を見極めた上で、「生徒」のために最善の手を打てる。
教育のプロとは、かくありたいものである。
そんな「教育のプロ」と一線を画すのが駒崎弘樹氏。
東洋経済オンラインの「奨学金問題の根本原因は教育・雇用の歪みだ 高すぎる大学の学費は、少子化も加速させる」(関田真也:東洋経済オンライン編集部 記者)というインタビュー記事(2016年6月2、3日)がお粗末すぎる。
舞田敏彦氏の「データえっせい」を読んだ方がよっぽどタメになる。
2016年4月8日の「大卒グレー・ブルーカラー」がオススメ。
(といいつつ、全部チェックしている訳ではないので、あしからず……)
さて、駒崎氏が記事で話している事を適当にまとめると、
「トンネリング」状態のトンネルズが、「大卒」という「シグナリング効果」を得て、人生の信号を青に変えるには、給付型奨学金といった教育分野への投資を行うべきで、それが「トンネリング」状態の日本を再生させる事につながる。
って感じ。
「トンネリング」というのは「トンネルの中にいる状態」からの連想で「視野狭窄状態」を表す経済用語らしい。
記事中では教育システムについても言及していて、その点がTwitterでバズっていたのだが、言っている事が
「わかりやすくなければ教育じゃない」
「効果がでなければ教育じゃない」
というレベルのお話で
「この人は教育については素人さんなんだな……」
という訳で、駒崎氏は教育のプロとは一線を画していると感じた次第でございます。
では駒崎氏は何者なのか……。
経済学を齧った気のいいおっさん、なのではないかしら。
だって、よほど「気が良く」なければ、聞かれたからといっても自分の専門以外の事についてベラベラ喋ったり、本物の専門家に反論してみたりしないでしょうから(笑)
ちなみに私は「マクロ教育学」(こんなのあるのか知らんけど)について、舞田敏彦氏、内田良氏、畠山勝太氏を参考にしております。
とにかく、誰に責任があるのかは分からんけれどマクロについて語るのであれば、せめて一定のデータは出して欲しいものです。
なんて言っても、本田由紀氏が2016年6月3日頃Twitterで嘆いていた問題が立ちはだかる。
データや研究成果、調査結果をいくら出したって、受け手が下手ならどうにもならない。
「下手な受け手」というのは「自分の理解出来る事、理解したい事だけをかいつまんで受信する方」の事。
教育現場での「わかりやすさの問題」や「効果測定の問題」の議論は、せめてこの辺りから始めないと話にならないと考えております。そしてこの話は、マクロではなく、ミクロの管轄なのよね……。
なんて、自分自身が「下手な受け手」である事は否めない……orz
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尾木氏、駒崎氏、本田氏の、たまたま流れてきたツイートに関して好き勝手書いてみた。
木を見ただけで森は見ていないのですが、当たるも八卦、当たらぬも八卦という事で……。
目の前に来たものにしか反応出来ないのは、困った事かもしれませんwww
それにしても、引用したり、リンクを貼ったりしても「true」と出るだけでどうにもならんのは困ったのぅ……。
「情弱乙」ってやつじゃな。
万が一、解決策が見つかったらリンク貼付けますので、それまで文中の記事はググって下さいませ。。
「普通」は目指さない
世の中で言う「普通」を私は目指す事はない。
そもそも世の中で言う「普通」とは何を指しているのだろうか。
それは単に「私と同じ行動をして」、「私の理想通りに動いて」、「私の事を察して」、「私を気分よくさせて」、「私を煩わせないで」といった事である。
つまり、どこまでいっても「私」。
「普通」と評価する「私」の範囲内でいる事。
「普通」と評価する「私」の管理下でいる事。
「普通」と評価する「私」の価値観に合わせる事。
「普通」にはこうした願望が含まれている。
そして、そこから逸脱した時に「普通は…」、「普通にしろ」といった言葉が飛び出す。
あなたの前にいるのはあなたではないのですよ。
お分かりですか???
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殺人事件といった犯罪が起こり容疑者が逮捕されると、決まって「普通の人だと思っていた」的なコメントが出てくる。
「普通の人」は「いい人」でもある。
なぜなら、自分の期待に応えてくれている人だから。
この事は「普通の人」でも犯罪者になる事を示すのか、それとも、犯罪者が「普通の人」のフリをしている事を示しているのか、私にはわからない。
しかし、どちらにしろ「普通」である事が、人々の警戒心を和らげる効果を持つ事は確かだろう。
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さて、そこで困るのがヨモギサワである。
私は自分で言うのもなんだが、とても「普通」www
残念すぎるほど「普通」……orz
初対面の人には必ずといっていいほど「どこかで会った事ありますよね」と言われ、そのクセ、2度目に会った時には「前と印象が違う」と言われる。
さらに言うと、存在感はあまり無く、一緒にいなかったのに「この前、一緒にいた時…」みたいな話をされるかと思えば、一緒にいても「この前、お前がいなかった時……」みたいな話もされる。
ちなみに、そんな自分を数年前は「無味無臭」なんて自己紹介していた事もあった……。
これの何が困るかと言うと、自分が逆に「胡散臭い」感じになること。
「あんなに『普通』だと、ぜったい裏があるよね……」みたいな。
そんなこんなで、ここ数年、SNSを利用した自己紹介をしている訳です。
それくらいの手間を惜しまないでくださいね。
お互い必要最低限の警戒はしましょうね。
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ちなみにヨモギサワが書いている事を理解出来るなら、ヒトジュクに通う必要はありません。
賛同頂けるなら、一緒に何かしましょう。
賛同頂けないなら、お互い離れてましょう。
一方、私の書いている事が理解出来ないのであれば、ヒトジュクに通ってみてはいかがかしら?
ただヒトジュクの経営状況は芳しくないので、早めに決断頂かないと無くなっているかもしれませんwww
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そういえば、そんなヨモギサワを一際嫌う方々がいます。
・他人を自分の支配下に置き管理したい人
・自身の実力を超えた役職についている人
・自分の尺度のみを絶対と考えている人
です。
おかげで、面倒くさいのと付き合う必要がないので助かっています。
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そうそう「普通」を目指さないのは、「普通」だから。
でも、最近ヒマなので、波風立てるのは厭わないから「事あれ主義」になってます。
どうか「事なかれ主義」の皆様はお気をつけ下さい。。
パラダイムシフト
TLに次のツイートが流れてきた。
応用哲学会2日目。昨日からの感想として、既存の議論枠組み上でスマートな発表をする人たちのを聞いてると、私はパラダイム内部で細部を検討し詰めていく営みにまったく興味がないんだなあとしみじみ実感する。(大学院ではそういうスキルを教えてますけどね)。
— 森岡正博 (@Sukuitohananika) 2016年5月8日
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世の中では「理系」と「文系」とどう定義しているのだろう?
私はこれらを「客観」と「主観」という「視点の違い」で説明する。
「他者と共有出来る評価軸」によって情報を扱うのが「理系」で、それ以外は「文系」である。
ちなみに、「私、文系だから」とか「私、理系だから」といった慣用句は、単に「国・社・英のテストが得意でした」や「数学・理科のテストが得意でした」を意味するに過ぎず、学校卒業以降には何の役にも立たない自己紹介である。
さて、以降は私の定義によって話を進める。
「他者と共有出来る評価軸」とはなんだろう。
これは「他者」の範囲をどのように区切るかで大きく変わる。
範囲によっては、宗教も「理系」となるし、哲学も「理系」となる。
また一方では数学が「文系」となる事も考えられる。
なので、
「それでも、地球はまわっている」
なんて言っても仕方が無い。
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件のツイートのなかに「その先ちょこっと論文」なる言葉が出てくる。
「理系」の学問であれば、その「ちょこっと」ずつが積み重なることで発展していく。
もし「理系」の学問においてパラダイムシフトが起きたら、それまでの「理系」は「文系」と見なされるかもしれない。
では「文系」の学問におけるパラダイムシフトとは何であろう?
そもそも「文系」の「評価軸」は他者との共有が難しい。
「評価軸」共有のために必要なのは情報・知識、体験・経験。
という事は、パラダイムシフトが起きても「気付けない」のではないだろうか。
たぶんパラダイムシフトを起こした本人は言葉を駆使して説明してくれるだろう。
しかし、パラダイムシフトの起きていない者がいくらそれを聞いても「わからない」のだろう。
逆に言えば、気付けてしまったり、わかってしまったりするのであれば、それは「パラダイムシフト」ではなく、単なる「言語化」に過ぎない。
(世の中では「言語化」=「パラダイムシフト」なのかしら???私自身は「評価軸」の変更がパラダイムシフトなのかと考えていたのだが、それも「言語化」に過ぎないと言えばその通りね……。「言語化」という言葉の範囲が広すぎるのかしら?)
ただ「その先ちょこっと論文」が「言語化」でなく、単なる「言い換え」に過ぎないのなら、確かにそれはショボいね、なんて思う。
でも「言い換え」してる本人は、それを「理系」と考えて評価軸の「目盛り」を細分化した気になっているかもしれないので、ま、触らぬバカに祟り無し、みたいな……www
ちなみに、人間がヒトであるかぎり、哲学にパラダイムシフトなんて起こらないんじゃなかろうか、というのが私の考えです。
ま、人工知能に期待してますw
人工知能が仮にパラダイムシフトなる事を起こしたとしても、人間がそれに気付けるかどうかは甚だ疑問ではありますが……orz
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なんて、私自身は「哲学家(知を愛する者)」ではありますが、「哲学学者(過去の知を研究する者)」ではないので、かの学派や学会内にどんな課題、問題があるのか一切存じておりません。
今回の話もミクロとマクロとの混同すれすれと自分では思っているのだけれど、そんな視点を、世の中で何と言うのかさえ知らん。
とにかく私自身は、違いのわからない「目盛り」不足であり、知の研究の出来ない「メモリ(容量)」不足なのでありますwww
『HUNTER×HUNTER』の視点
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』が連載再開するらしいので記事を書いてみる。
今回の再開は長く続くといいな……。
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『HUNTER×HUNTER』に出てくる視点は、私が考える教育の視点と重なる事が多々あるので、その事について書く(以下、引用は【巻数ーページ数】と記す)。
・「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ」【1ー54】
ミトおばさんがゴンに教えたという言葉。
相手が何をどう評価するのか、何にどういった反応を示すのか、といった事はすべて相手の事を知る事につながりますね。
・「どちらを選んでも本当の正解じゃないけどどちらか必ず選ばなくちゃならない時…いつか来るかも知れないんだ」【1ー81】
ハンター試験本会場に行く途中のチェックポイントクリア後のゴンの言葉。
思考練習系の問でのテストをする人間は現実世界にも多いけれど、私は基準が無い問でテストをする事に反対。
だって恣意的な「人間性の選別」に過ぎないでしょ…。
でも少年マンガでこうした問を投げかけておくのは面白い試み。
・「あくまで料理を通して観察力や注意力を測るテストだったはずなのに」【2ー71】
「評価基準を公表すると、そこに特化される恐れがある。」という話をネット上で見た事がある。
とても得心のいく話で、以来、気をつける様にしている。
ちなみに上のは試験官が「評価基準」を恣意的に変えてしまった場面での台詞。
こういう事ってよくありそうwww
・「オレはもう負ける気満々だがもう一度勝つつもりで真剣に勝負をしろと その上でお前が気持ち良く勝てるような勝負方法をいっしょに考えろと」【4ー163】
「お前の話は聞きたくないが、オレが何かを出来るようにしてくれ」という人はよくいる気がする…。
・「昔の訓辞に『物事とは中途半端に知ることで 何も知らないよりわからなくなる』とあります」「生兵法は大怪我の元ってやつね (略)」【6ー32】
「生兵法は大怪我の元」は普段使いますね。
私が中等教育者の質を見分ける際に「言われた事を教えて『下』」と言っているのは、この事を意識しているからです。
・「『念』は使い方を間違えればおそろしい武器になってしまうから」【6ー43】
ウイングが「念」ではなく「燃」を教えた理由。
これ「念」でなくて「知識(情報)」としても一緒。
日本の教育業界で「生兵法」しか教えていないのは、もしかしたら同じ理由なのかしら。
そうしたらヒトジュクはやってはいけない事をやろうとしている事になってしまうわね…。
でも、私だって当然この視点は持ってます。
・「彼の念に対し君たちはあまりに無防備だ 極寒の地で全裸で凍えながら なぜ つらいのかわかっていないようなもの」【6ー58】
大学生の時、同期に指摘され読み返し、「なるほど」と思った台詞。
「知らなきゃ気付けない」というのは現在の私の教育論の根幹をなす視点のひとつ。
・「キミの敗因は容量(メモリ)のムダ使い」【6ー197】
この言葉は私の中で長い間課題となっていた。
身体能力においては「容量(メモリ)」のイメージは確かに当てはまるが、思考能力においては当てはまらないだろう、というのが現在の私の到達点。
このマンガに出てくる「念」能力は、身体能力のイメージに近いが、学校の教科といった方面とは全然違う。
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上記のように、いろいろと一般化された視点が出てくるのだが、特殊な台詞は無いな…、なんて思い始めたので、この辺りでやめておく。
キルアの育て方には「支配」の視点が多く含まれている。
幻影旅団の考え方は「強者」の論理が含まれている。
そこには私がまだ解決の糸口すら掴めていない「信念を持った人権侵害者」という問題がある。
グリード・アイランドなどでの「念」の修行は、中等教育の分野でもあんな風に整備出来たら…、と思えるシステムも出てくる。
ただこれらは、冨樫義博氏の思考の一部でもあるのだろう。
ゴンやキルアの家庭環境やその描写から垣間見える家族観。
キメラアントとの戦いの中で描き出される人間観。
ハンター協会会長選やゾルディック家のゴタゴタから見えてくる組織論や個人の持つ力について。
なんだかんだ言って、希望に満ちあふれているマンガだと感じる。
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付箋を貼りながら全巻読み、気合いを入れて記事を書こうと思ったのだが、結局、中途半端になっちまいました…。
でも冨樫義博氏の『HUNTER×HUNTER』は尻切れとんぼにならないといいな。
とにかく連載再開ありがとう。。